5月26日NHKスペシャルで「魂のピアニスト、逝く 〜フジコ・ヘミング その壮絶な人生〜」が放送されました。4月21日に92歳で逝去された追悼スペシャル。
フジコ・ヘミングを一躍有名にしたのは1999年に放送されたNHKスペシャルで演奏した「ラ・カンパネラ」。彼女の代名詞となり、CDは200万枚越えのクラシックCDでは大ヒットのセールス。
個性的な風貌とストレートで遠慮ない発言がそのピアノのテクニック以外でも多くのファンを魅了しました。素敵なフジコさんの軌跡の紹介します。
フジコ・ヘミングは、なぜ人々を魅了するのか
フジコ・ヘミングのNHK番組を始めて観たのは、1999年、独身の時仕事からヘトヘトに疲れて帰り着いた一人暮らしの部屋。たまたまテレビをつけたらNHKの特集番組「フジコあるピアニストの軌跡」が放送されていた。フジコ・ヘミング、当時67歳の特番TV。
ぼんやりとした照明にクラシカルなグランドピアノ。老婆が奏でる美しい演奏のなか、まるで音楽に語り掛けるかのようなピアノの上を歩き回る猫たち。
なに?このおばあさんの演奏!?哀愁とパッションと感性をくすぶる、涙がこぼれ落ちそうな「ラ・カンパネラ」
なに?この品のある毒舌?言葉の端々に愛と毒を感じる発言。なんだかアート。なんだか芸術。
彼女の自宅のレトロでアンティークな装飾、キャンドル、猫たちまでが美しく感じられる。そしてフジコ自体も鼻筋の通った、ヨーロッパ系の顔立ち。彼女と彼女を取り巻くすべてのものが芸術として見えてしまう。名前さえも芸術的に感じてしまいます。
ひと言でいえば、異国情緒。日本古来のものとはほど遠い、なんだか憧れに近いような感覚でテレビを見入ってしまったことを思い出します。
「私が世界で一番うまいなんて思っているのではなく、私は自分の『カンパネラ』が一番気に入っていて、他の人の引き方が嫌いなのよ」「技巧を凝らして作った鐘、ひとつひとつに魂がはいっているような、ぶっ壊れそうな『カンパネラ』だっていいじゃない」
NHK特集「フジコあるピアニストの軌跡」フジコ・ヘミングの言葉より引用
この番組を見て、すぐにCDを購入しました。※カンパネラはイタリア語で「鐘」という意味
フジコ・ヘミングの演奏では完璧ではない
1999年放送のNHK特集でも言っていましたが、機械のような演奏は嫌い、と。機械のような完璧な演奏をすればコンクールで入賞することは出来るかもしれないが、「譜面の後ろにある霊感を感じて」と言っています。
実際、購入したCD『奇跡のカンパネラ』でも音が外れているところはあります。そんなことは「どうでもいい」と思わせる彼女の演奏は言葉では言い表せない感性が響いているのです。
機械のように、そろばんを弾くようにピアノを弾いても、観客を魅了することはできないと言っています。本当にその通りです。譜面通りに完璧に引いたところで、心は揺さぶられないのです。
逆にフジコさんの波乱万丈の人生を、喜怒哀楽をすべてピアノ演奏に込めたメロディが観衆を魅了するのです。ミスタッチなんて関係ない、上手い、下手の部類の話ではないのです。
本人も「私はミスタッチが多い」と言われています。それが何なの、私の音色は私しか出せないと豪語しています。本当にその通りなのです。同じ曲なのにフジコさんの音色には何か、人々をを魅了する彼女の人生の生きざまのような感性が凝縮されているのです。
私は涙が枯れちゃって出ない。涙が枯れちゃうことってあるんですよね、若い頃さんざん泣いたから。 フジコ・ヘミングの言葉より
彼女の人生はまるで映画のような、ベートーヴェンのような、試練に満ちたストーリーなのです。
フジコ・ヘミングの人生は、試練の嵐、孤高のピアニストへの道のり
建築家でスウェーデン人の父と日本人ピアニストの母のもとに誕生します。ちなみに弟さんは大月ウルフという俳優さんです。(2020年に逝去されています)
父親はフジコが幼少期にひとりで帰国し、日本に戻ってくることはなかった。
母はピアノ講師として生計をたて、夜、母の奏でるショパン「ノクターン」を聞きながら寝ていたと言っています。素敵なエピソードですね、幼少期の記憶は後にフジコに多大な影響を与えているのですね。
フジコの4歳からピアノを始め、天才少女と言われて東京藝術大学在学中にNHKコンクールの賞を取り、順調な人生を送っていたが少しづつ歯車が狂いだす。留学の準備を進めているときに、無国籍ということが発覚。なんとか恩人の手助けでドイツに留学するが、現地では日本人留学生から「無国籍」ということで屈辱的な扱いを受ける。
戦時中を経験したフジコさん。当時はハーフということでも差別や偏見の目で、辛い経験をしたことと思います。父が去り、苦しい生活。そして無国籍の烙印。彼女の繊細な心はどれだけ痛みを感じたことでしょうか。
ドイツからオーストリアへ活躍の場を移し、有名な指揮者の目に留まり、オーストリアでの大きな公演直前に高熱をだし、左耳が聞こえなくなる。
そんな事ってありますか?!神様は彼女にどんな試練を与えられるのでしょうか。実は、フジコは16歳の頃に既に右耳の聴覚を失っています。
その後は大きなチャンスにも恵まれず、ドイツでピアノ講師としてひっそりと暮らし、耳の療養や演奏活動をしていたそうです。
30代、40代と一番元気で脂ののった音楽家として黄金時代を耳が聞こえない試練を抱えながら、ひっそり過ごすなんてどれだけ辛かったでしょうか。
しかし、同じ状況は永遠に続くことはありません。フジコさんにも転機は訪れます。
フジコ・ヘミング、魂のピアニストとしてNHK特集が放送で一転
母の死をきっかけに約30年の海外生活に終止符を打ちます。日本に戻り、NHKが「あるピアニストの軌跡」として波乱万丈なフジコさんの人生を放送するとたちまち大反響を呼び、クラシック界にフジコブームを吹かせることになります。
- 歯に衣を着せぬフジコ発言…海外生活が長かったからでしょうか、日本人のような曖昧な発言はありません。好き、嫌いをはっきりと発言。
- 個性豊かなファッション端正な顔立ち…フジコさんならではの個性的なドレスを普段から身に着け、自作の髪飾り。彼女のファッションは彼女にしか着こなせない独自のもの。
- フジコが奏でる感性豊かな演奏…ファッション同様、彼女しか表現できない心揺さぶる哀愁の演奏。彼女の人生で起こった計り知れないドラマが演奏の中で人々の心の琴線を揺らします。
- リストとショパンなど、自分が心から愛する作曲家の曲を演奏…フジコさんは特にショパンを心から愛していました。現代で言う『推し』でしょうか。ショパンの書籍をたくさん読み、ショパンの旅まで決行します。天国に行ったら早く会いたいというほど、フジコさんの心の恋人です。
ドキュメントの中で語るフジコさんは、飾り気がなく、ストレートな発言。その素直な人柄がまた人々を魅了しました。その後亡くなるまで精力的に全世界で公演を行っています。
フジコ・ヘミングの「ラ・カンパネラ」で海苔漁師がピアニストに
九州佐賀の海苔漁師・徳永さんは52歳の時に偶然テレビでフジコさんが演奏する「ラ・カンパネラ」を聞き、感動のあまり、自力で猛特訓。毎日10時間練習し、6年かけて通しで弾けるようになりました。
その話がニュースやTVで紹介され、「さんま・玉緒のあんたの夢かなえたろか」で、念願だった憧れのフジコ・ヘミングの前で「ラ・カンパネラ」を演奏します。
フジコさんの嬉しそうな表情を覚えています。素敵なストーリーですね。その後徳永さんはボランティアやチャリティーコンサートで演奏することもあり、フジコさんのコンサートにもゲストで招待されていましたが、コロナ渦で中止、その後実現したかは定かでありません。
2023年、その事が映画化されることになりクランクイン。2024年冬には映画が公開される予定です。是非、フジコさんにも観てもらいたかったですね。
フジコ・ヘミングのまとめ
孤高のピアニスト、フジコ・ヘミングさん。波乱万丈な彼女の人生は、彼女が奏でる美しい演奏を彩るために神様が与えた試練だったのでしょうか。
芸術家の両親のもとに生まれ、絵を描くこと、バレエ鑑賞や芸術鑑賞、読書などとにかく自分の好きなものの中で人生を送った、純粋でロマンチストのピアニスト。
彼女がおおきな手で奏でる、演奏が難しい「ラ・カンパネラ」。この曲は人々の心の中でフジコ・ヘミングという存在を忘れることなく刻まれていくでしょう。
コロナ渦に中止になってしまったコンサートに行く予定だったので、実際の演奏を聞けなかったことがとても悔やまれます。きっと涙がこぼれたことでしょう。
92年間、美しい音楽を届けてくれてありがとうございました。天国で愛するショパン、家族と再会されることを心から祈っています。
コメント